何ごとにも完璧主義なボクがいます。これは昔から気づいていました。
いつも万全の体制で挑もうとします。敵がいなくても全力です。競争相手はいないものでも、敵は自分自身なんでしょうか。実際は、こういったことって、追求し出すとキリがありませんよね。多くのことは相手あってのことなので、自分自身だけで完結するものではないはず。そう考えるようになってずいぶん経ちますが、なかなかボク自身は変わりません。ヒトって変わらないんだな、とこれまで思っていました。
遊びに行くときは、完璧に調べきってから、その上でその時点での最良のプランを立てるので、助走があまりにも長くなります。側でみているヨメは疲れてしまうようですし、ボク自身も行く前に疲れてしまったりすることも。そのときは自覚がありませんが、振り返って考えてみると、それが多い気がします。旅行に行くときは、行く場所だけでなく、周囲のこと(国だったり、場所だったり)まで調べます。インターネットが使えるかはもちろんのことながら、他のプランとの比較、他の旅行会社・他の旅行会社のプランとの比較、とスタートするまでに長い道のりがあります。
オシゴトも同様に完璧を目指してやるのですが、目に見える進捗があがりにくいので、イライラするクライアントもいるでしょうし、チームの面々もボクの完璧指向には、きっとお疲れでしょう。(いや、ここは違うかも。)ボク自身もスケジュールとの兼ね合いで、ヒヤヒヤすることもあります。
こだわりは悪いことじゃなくいいことだと思うんですが、割り切ったり、目をつぶったりすることも大切なんですね。ヒトの五感って、意識せずともそういう風にできているはずなのに、わざわざ意識しているココロがついてこないのはフシギな話です。
さて、少し前の話ですが、ボクが結婚してからできた兄が、新婚旅行でトルコに行きました。
「新婚」で「旅行」でとくれば、ボクだったら“完璧な調査”と“完璧な段取り”を目指すと思うんですね。英語圏じゃないし。だけど、兄は現地でのスケジュールを決めずに出発しました・・・。結果的に、電車を途中下車して外人さんが釣りをしてるのを覗いたり、風邪引いてホテルで寝込んだり、そんな自由きままで、本来の意味での旅行を堪能できたんだと思います。
こういう旅行って、どういう切り口で考えても、ボクにはできないなって感じていました。それは、「効率重視」で「費用対効果重視」で「ロス(機会損失)重視」で、そういったことを気にしてるからに他ならないんですが、あらゆることに対してこの尺度を当てはめてしまうボクがいるんでしょう。
そこで、30代になって、やっと少しですが考え直してみました。
家だって、ガチガチに作ったものは地震ですぐに崩壊してしまうでしょうし、崩れないで残る家は“あそび”があるんだと思います。ヒトにも“あそび”が必要なんですよね。旅行における“あそび”とは、行きたい箇所のひとつをガマンして、いつあるかわからないけれど次の機会に残しておく、といったことになると思うんです。旅の失敗(またはロス)を楽しめるようになるとか。
絶対的な尺度で、ムダのない旅行は不可能なので、神経質にならず、もっと準備自体を楽しむことをカラダで覚えるべきなんでしょう。
そんなわけで来月にはフリープランで、暖かいところへ旅に行ってきます。珍しくボクは細かいことは調べたり、決めたりしないでおいて、「旅は情け、人は心」ってな感じで一度いってみようと思い立ちました。世界遺産がないからという話もありますが・・・。
本来は、今年のメインディッシュである○○○○○○世界遺産でチャレンジしようと考えましたが、あまりにもロスが出そうな気がしたので、残念ながら今のボクのレベルでは決断できませんでした・・・。
話は変わりますが、結婚って、後から兄や姉ができるという それは何ともフシギな儀式ですね。