ダン アリエリー (著), Dan Ariely (著), 熊谷 淳子 (翻訳)
経済って合理的じゃないの?自分は少なくとも合理的に生きてるよ。という方に読んでほしい一冊。ヒトって感情で動いてるなぁということをしみじみと感じられた。自分自身の行動を見直すことにもつながるが、サービスの売り方を考えることにもつながる。逆らえない人間のDNAを知りたい方へ。
予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 熊谷 淳子 早川書房 2008-11-21 |
目次
はじめに
一度のけががいかにわたしを不合理へと導き、ここで紹介する研究へといざなったか
1章 相対性の真相
なぜあらゆるものは--そうであってはならないものまで--相対的なのか
2章 需要と供給の誤謬
なぜ真珠の値段は--そしてあらゆるものの値段は--定まっていないのか
3章 ゼロコストのコスト
なぜ何も払わないのに払いすぎになるのか
4章 社会規範のコスト
なぜ楽しみでやっていたことが、報酬をもらったとたん楽しくなくなるのか
5章 性的興奮の影響
なぜ情熱は私たちが思っている以上に熱いのか
6章 先延ばしの問題と自制心
なぜ自分のしたいことを自分にさせることができないのか
7章 高価な所有意識
なぜ自分の持っているものを過大評価するのか
8章 扉をあけておく
なぜ選択の自由のせいで本来の目的からそれてしまうのか
9章 予測の効果
なぜ心は予測したとおりのものを手に入れるのか
10章 価格の力
なぜ一セントのアスピリンにできないことが五〇セントのアスピリンならできるのか
11章 私たちの品性について その1
なぜわたしたちは不正直なのか、そして、それについてなにができるか
12章 私たちの品性について その2
なぜ現金を扱うときのほうが正直になるのか
13章 ビールと無料のランチ
行動経済学とは何か、そして、無料のランチはどこにあるのか
謝辞
共同研究者
訳者あとがき
参考文献
原注
「相対性」で選択する。相対性は(相対的に)理解しやすい。
"トムは人間の行動の偉大なる法則を発見した。人に何かをほしがらせるには、それが簡単には手にはいらないようにすればいい"
アンカリングを実践する。
自分自身に群れつどう
ソクラテスは、吟味されない人生は生きる価値がないと言った。わたしたちもそろそろ、自分の人生における刷り込みやアンカーをよくよく検討していいころだ。その刷り込みやアンカーがかつてはまったく合理的だったとしても、いまも合理的とはかぎらない。
たいていの商取引にはよい面とわるい面があるが、何かが無料!になると、わたしたちは悪い面を忘れさり、無料!であることに感動して、提供されているものを実際よりずっと価値あるものと思ってしまう。
ふたつの異なる世界--社会規範が優勢な世界と、市場規範が規則をつくる世界--に同時に生きているからだ。
社会規範:友達同士の頼みごとが含まれる。どちらもいい気分になり、すぐにお返しをする必要ない。
市場規範:賃金、価格、賃貸料、利息、費用便益など、やりとりはシビアだ。支払った分に見合うものが手にはいる。
ちょっとしたプレゼントで気分を害する人はいない。たとえたおしたものではなくても、それによって社会的好感の世界にとどまることができ、市場規範に近づかずにすむからだ。
人間関係を特別な領域に維持して、市場規範から遠ざけておくために支払わなければならない金額なのだ。
ある感情の状態のとき、べつの感情の状態を考えるのはむずかしい。いつもそうできるとはかぎらないし、スミが学んだように、痛みがともなうこともある。
わたしたちは、そのときの満足とあとからの満足にかかわる自制心の問題を抱えている。それはまちがいない。しかし、わたしたちが直面するどの問題にも潜在的な自制の仕組みがある。
わたしたちにほんとうに必要なのは、誘惑の瞬間に消費を阻止する方法であって、起きてしまったあとで不満を言う方法ではない。
多くの売買で、持ち主の信じる所有物の価値が、つぎの持ち主になるかもしれない人の考える支払額より高いのはなぜだろう。「だれかの天井はだれかの床」という古いことわざがある。言ってみれば、持ち主という立場のときは天井にいるし、買い手という立場のときは床にいるわけだ。
近代民主主義において、人々は機会がないことではなく、めまいがすること機会がありあまっていることに悩まされている。現代社会においてはまさにそのとおりだ。わたしたちは、やりたいことはなんでもやれるし、なんにでもなりたいものになれると常に言いきかせられている。問題は、この夢にふさわしい生き方をすることにある。わたしたちはあらゆる方向にみずからを成長させなければならない。
こうした扉は、閉まるのがあまりにゆっくりで、消えていくところが目にはいらないことがある。
わたしたちに必要なのは、いくつかの扉を意図的に閉じることだ。言うまでもなく、小さい扉はわりあい閉じやすい。
ここでの教訓は、もう予想がついているかもしれないが、あらかじめ味がまずいと教えると、人々がそれに賛同することになる可能性が高いということだ。それも、人々が経験によってそう実感するからではなく、まずいと予測するからだ。
試飲の前に酢のことを聞いた実験協力者に比べて、試飲のあとに聞いた人は、ビールに酢を加える決心をした人の数が二倍だった。「あと」条件の実験協力者にとって、酢入りのビールは最初に飲んだときまんざら悪くなかったため(そう判断したと思われる)、もう一度試してみるのも平気だったわけだ。
"自然は、社会のために人間を形づくったさい、同胞を喜ばせることへの生まれついての願望と、同胞を怒らせることへの生まれついての嫌悪を植えつけた。自然は人間に、同胞の好ましい点に快感を覚え、好ましくない点に不快感を覚えるように教え込んだ"。アダム・スミス。
人々はチャンスがあればごまかしをするが、けっしてめいっぱいごまかすわけではない。また、いったん正直さについて考え出すと--十戒を思い出すにしろ、ちょっとした文面に署名するにしろ--ごまかしを完全にやめる。つまり、わたしたちは何かの論理思想の水準から離れると、不正直に迷いこむ。しかし、誘惑に駆られている瞬間に道徳心を呼びおこされると、正直になる可能性がずっと高くなる。
何よりまず、個人の金銭的利益が自分の道徳規準に反するような状況に陥ったとき、わたしたちが真実を「曲げ」、世界を私欲と矛盾しないものとして見て、不正直になってしまうということを自覚することだ。この弱さに気づけば、はじめからそうした状況を避けるよう努めることができる。
ちがいはその品物の値段でもなければ、ばれることへの恐れでもない。経費を正当な理由で使ったと自分自身を納得させられるかどうかにかかっている。
わたしたち自身が代用貨幣と不正をしてしまう傾向との関連に気づくべきだ。現金から一歩離れたとたん、自分では想像できないほどの不正をしてしまうのだと自覚する必要がある。