ヒトが、ヒトから生まれてくるなんて、考えれば考えるほどフシギなことばかり。
その中でもボクがずっと前から気になっていることは「どこでヒトになるのか?」です。ボクはこれを「どこでココロが入るのか?」と置き換えて考えています。
ココロが入っていないとモノ扱いされるようですね。死んだときと同じように。だから人工中絶が許されるわけですよね。(加害者の人権が優先されるわけですよね。)その人工中絶も、一定の週を過ぎてからは自分で選択できなくなることから、どこかでモノからヒト扱いに変わるんでしょうね。その境界線はあいまいですし、あいまいなままのほうが良いと思うのですが、ボクはひとつの答えをだしてみました。
「産まれてきてオギャーと泣いたときに、ココロが入る。」
実際に声が出るかどうかが重要じゃなくて、そういうタイミングでココロが入ることです。この解釈をしてから、ボクの中で矛盾がなくなって、あまり考えなくなりました。
赤ちゃんって母親のお腹にいるときの記憶がある、って聞いたことがあります。お腹にいるときに胎教っていって音楽きかせたりもしますよね。
他には、YouTubeで「エコー」で検索すると、胎児の4D動画の映像をみることができるんです。観たことない人は1度みてみる価値あるかも。(おなかの赤ちゃん「笑顔、しかめっ面」 胎児4Dエコー - YouTube)
映像をみると、動いているし、表情豊かだし、音楽きかせるわけだし、ボクの定義とあわなくて変なんですが、これをカラダ(=モノ)の記憶と解釈することにしました。ココロが入ったときにカラダの記憶を受け取るイメージですね。
そう考えることで、人工中絶のこと、流産したときに戸籍に残さないこと、早産で産まれたときでも戸籍に残すこと、のつじつまが合うかなと思いました。ココロが入っていないうちは、社会的にはヒトとして扱われないという解釈です。
ココロが入るのが、産まれてきてオギャーと泣くときだからといって、それまでのことがまったく関係ないわけじゃないんですね。ココロが入ったときにカラダの記憶を受け取るから。
みなさんはどう考えていますか?ボクよりいい考え方をお持ちの方がもっとたくさんおられると思います。ぜひお聞かせくださいね。