何のために生きてるのかわからなくて。だけどいつか死ぬだろうことは知っていて。限られた時間を何のために使えばいいのだろう、とすごく悩んでいました。悩みというよりは、問題としてとらえ、その問題を解決しようと戦っていました。
ボクが見つけてきた、ひとつの答えについて今回は書いてみます。
生きるということ。信念ともいうのかもしれませんが、それをボクは「活かされ、護られている」と解釈しました。「生きる」というのを主観でとらえていたのですが、今年考えぬいた結果、ボクの中ではこのコトバで表現することが、一番しっくりきました。
1つ目に、これまで「自分を中心に地球が回っている」と考えていたのですが、考えが変わりました。「自分を中心に地球が回っている」のは変わりませんが、これと同じように、他の人にとっても、その人を中心に地球が回っている、と変わりました。
「自分を中心に地球が回っている」とは、自分のことが一番大切、とも言い換えれるのですが、「他の人にとっても、その人を中心に地球が回っている」と考えを加えることで、ボクが「自分のことが一番大切」と考えてるのと同じように、その人もとても大切な存在だ、とわかるようになりました。
2つ目に、人が生まれるにあたり、必ず親が2人いることに気付きました。趣味のひとつで、家系図を作っているのですが、これを作っていく中で気付いたことです。はじめた目的は、単にやってみたかっただけなんですけどね。その2人の親にも、それぞれ必ず親(おじいちゃん・おばあちゃん)が2人いて、さらにその親、親、親といることがわかります。いったい何人の人がいたおかげで、自分が生まれてくることができたのだろうか、と驚きました。
家系図は、直系だけを自分から過去へと辿っていくだけなので(これでも相当大変ですが。)、遠い親戚まではわかりません。もしかしたら、今日出会ったあの人や、血はつながっていないはずだけどとても気の合うあの人。もしかしたら少しのすれ違いだけで、家系図にのっていたかもしれません。そう考えるととてもフシギなことで世の中が動いている気がしました。神社や遺跡(世界遺産)が好きなのですが、それらを見る目も変わったように思います。もしかしたら、ご先祖さまかもしれない・・・なんて。
3つ目に、「感謝」の意味を知りました。
よく聞くコトバです。「感謝が足りない」なんて、聞き飽きてしまっているくらいチープなコトバでした。感謝する想いや思考がボクに欠けていたので、そういった行動をすることができなかったんです。想いの欠けている感謝にどれだけの意味があるんだろう、と考えていました。試しに行動したことがありましたら、しっくり来なかったことと、違和感を感じたので行動がついてきませんでした。
ここに大きな発見がありました。
ボクがこうして文章を書いているパソコンやインターネット。かけている音楽やそのソフトウェア。寒いからと付けているヒーターに、着ている服。普段、当たり前と感じているこれらのことって、ひとりではできないことばかりなんですよね。だれかのおかげが積み重なって、ボクがこういったことを得ているだけです。これを当たり前だと思っていたので、これまで感謝なんてできなかったんだと知りました。
これら3つのことから、生きることは「だれかによって活かされ、だれかによって護られている」という理解をしました。
ボク自身が感じたり悩んだりしてきた多くのことが、急にとてもつまらないことになりました。ボクをとても悩ませてきたことが、とても小さなことになり、宇宙からみたときにホントに小さなことだったんです。つまりは、ボク自身の受け取り方を変えるだけで、それらの多くは解決できるようになりました。他のだれかが変わったわけではなく、事象が変わったわけでもなく、受け取りかたを変えるだけで、たったそれだけで解決することがとても多いことを知りました。
言い換えると、社会という大きな流れの中にボクは存在していて、それは家系図という意味でも大きな流れ(=血筋?)の中に存在していて、その大きな流れの中で、たった100年ほどの人生をボクがどう過ごすのか、だけのことだと感じたんです。100年って長いようで短いんです。流れを逆に向けることは難しいが、少し向きを変えるくらいなら100年かければできるかもしれない。いや、30年でもできるかもしれない。妥協や落胆をしたわけではなく、人生とはそういったものなんだと感じました。
この考えから、生きるのはなぜか、と考えなくて済むようになりました。ひとつひとつ、目の前の小さなことに感謝をし、それと同じようにだれかに感謝されるようなことをすればよい、となりました。
なのでボクの中では、やっぱり「活かされ、護られている」なんです。
2010年に見つけた信念となる考え3つ。